明智光秀

光秀、再評価の時 ~光秀の実像~

本能寺跡の石碑(京都市)
本能寺跡の石碑(京都市)

光秀といえば、主君信長を討つものの、秀吉に山崎の戦いで敗死したため、反逆・逆臣・三日天下などのイメージが強くあります。

しかし、光秀の実像を見ると、信長の家臣として朝廷・将軍家などとの調停役の顔、丹波平定などを行った軍略家の顔、京都を挟んで琵琶湖水運の重要地坂本城と山陰・中国地方への要衝地丹波亀山城の支配を任され、丹波を支配した統治者の顔など、さまざまな分野で活躍しています。信長をして「天下の面目をほどこし候」といわれるほどでした。

また、光秀は丹波亀山城と城下町の基盤整備を行いますが、これは近世亀山の発展の基礎となり、現在における亀岡のまちづくりのルーツです。さらに、「亀山」という地名は光秀の時代の史料から見られるため、光秀による命名の可能性が高いといえます。

反逆・逆臣・三日天下から才気あふれる知将光秀へ。今はまさに、亀岡から光秀の実像を積極的に紹介し、光秀の再評価をひろく全国に発信する時です。

光秀のプロフィール

明智光秀公尊像(谷性寺蔵)
明智光秀公尊像(谷性寺蔵)

忠実としてははっきりしませんが、生まれは岐阜県可児(かご)市、山県市美山町、恵那(えな)市明智町の三説があります。生年は1526年とも1528年とも記述がありますが、「明智軍記」では、小栗栖(おぐりす)でその生涯を果てるとき、「順述に二門なく大道は心源に徹す55年の夢覚め来たれば一元に帰す」と詠んだとされ、55歳で死んだことになります。

光秀は武骨一辺倒の人物ではなく、戦いの間には当代一流の文化人たちを亀山城や坂本城に招いて茶会や連歌会をひんぱんに催していたようで、教養の高い文化人でした。

丹波亀山城

亀山城古写真(明治初期)美田村顕教撮影
亀山城古写真(明治初期)美田村顕教撮影

別名を亀宝城(きほうじょう)、霞城(かすみじょう)といい、天正6年(1578)頃、明智光秀により築城。当初は小さなものでしたが、慶長15年(1610)、藤堂高虎(とうどうたかとら)によって五層の天守が完成します。

明治11年(1878)頃、当時の新政府により解体、現在は堀や石垣が城跡として残っています。司馬遼太郎は『街道をゆく』で、亀山城のことを「闇夜に打ち上げられた大輪の花火のように華麗ではかない」と書いています。

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